FXの税金や投資の税金
柳に若葉が芽吹き、気の早いソメイヨシノがほころび始めた先週末。不動産投資 は春休み。溜まりに溜まった家族サービスのツケを清算すべく、筆者はスギ花粉の攻撃におびえながらも、西へ東へと短期間に小旅行を重ねた。そして旅行先でまた、奇妙な光景が見えてきた・・・。 ■安・近・短の観光地が金太郎飴化!? 一つは都心に近い観光地の定番、箱根。交通アクセスもよいため、筆者はCFD に訪れる。メインは登山電車やケーブルカー、ロープウエー、遊覧船などの乗り物と名所・旧跡巡りだ。 少し奥まったエリアにも温泉施設などがあるのだが、四季を通じて集客できるこれといった観光資源がない。かくしてそのエリアは、当地とはあまり縁のない、美術館や流行の“南仏風”ミニテーマパーク、体験型クラフトハウスが軒を並べるようになった。 筆者はすぐ近くの河口湖でも、同じような風景に出会った。こちらの売り物は富士山を望める大遊園地と、湖を取り巻く温泉街だ。 箱根は数年前から増えている日帰り観光客をどう引き留めるかに腐心している。その回答が前述の観光施設なのだろう。河口湖も事情は似たようなものだ。高速道路のアクセスが良いため、遊園地で遊ぶだけなら自家用車か高速バスで十分日帰りできるからだ。 どちらの観光地も客を一晩泊めて、翌日も金を落としてもらうようにするのは並大抵の苦労ではないだろう。かくして、何か翌日も楽しく過ごしてもらうアクティビティーが必要となる。観光地間の集客競争がし烈を極めるご時勢。その土地とは関係ない観光施設でも、他で成功しているものがあれば、模倣してしまうのは人情というものか。かくして、同じような美術館やミニテーマパーク、クラフトワーク体験などが全国のあちこちで増殖することとなる。 ■薄れゆく旅のエッセンス 旅行に関する格言をひも解いてみると、その多さに驚く。イギリス生まれのエッセー作家で「宝島」「ジキル博士とハイド氏」で有名なスティーブンソン・ロバート・ルイス(Stevenson, Robert Louis:1850〜1894)は、「希望に満ちて旅行することは、目的地にたどり着くことより良いことである」と旅の本質を洞見している。ドイツを代表する詩人・劇作家・小説家・哲学者であるヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe:1749〜1832)は「人が旅をするのは到着するためではなく、旅行をするためである」と述べている。 かつて旅行は手軽なものではなかった半面、見聞を広めながら、本人の外貨預金 を深く洞察する目的もあったと思われる。「旅行をしてどんな目的を達成するか(何をするのか)」が問題ではなく、「旅行は手段であって、その過程で何を得られるか」が重要だった。つまり、今日の旅行とは手段と目的が逆なのだ。 一方、19世紀イギリスの評論家・美術評論家であるジョン・ラスキン(John Ruskin:1819〜1900)は、旅行が簡便になった今日を予見したような「全ての旅行はその速度が正確に定まってくるにつれ退屈となる」という鋭い言葉を遺している。 そう、旅行とは本来、「その場所に行って、提示されたアクティビティーのメニューを受け入れ、体験する」という型にはめられたものではない。目的地までの過程、目的地でのさまざまな経験全てを通じて、旅行者ひとりひとりがつくり上げていくものだ。人によって、また場所によって、それぞれの旅の形があるはずだ。最後までどんな体験が待っているのか予想できないワクワク感が、人を旅に駆り立てる。そして自らの五感で感じたことやそこでの思索や体験が、やがて心の糧となるのだ。
■「ブランド」構築の観点から観光地を見直そう 全国のあちらこちらで「模倣」が進んだ結果、その商品やサービスがどこでも入手できるようになる。その結果、顧客に新鮮さを与えられなくなり、市場全体が地盤沈下していく――こうした例は枚挙に暇がない。もちろん旅行とて例外ではない。 そうならないためにも、その観光地にどのような魅力があり、投資信託 にどのように提供できるかを「ブランド」という観点で整理し、ステートメント化(明文化)してみてはどうだろうか。筆者が考案したフレームワークに基づいて考えてみよう。本来、企業ブランドを考える際に使用するのだが、十分応用できるはずだ。 図のように、フレームワークは5つの要素で構成されている。その中心にあるのは「個性」、すなわち、他の地域(通常であれば企業)にはない(そこでしかできない)、その地域の独自性を表す部分だ。ピラミッドの上層にある「価値理念」は、その地域の哲学を表すブランドの価値ともなる部分だが、「その地域は顧客に対してどのような存在であるのか」を明確に定義することが前提となる。 その個性を踏まえて、地域として自信を持って提供できるものは何なのか(「機能的付加価値」)、顧客との各種コミュニケーションを通じてどのような気分にさせることができるか(「情緒的付加価値」)を明確にしていく。両者とも、「その地域にしかできない」、言い換えれば「マネするのが難しい」(模倣困難)ほど強い力を持つ(そのため、それがないなら開発しなければならない)。最後に、これら4つの要素は、どのような顧客に提供するものなのか(「理想とする顧客」)を明確に設定する。誰も彼も「大切なお客様」としていたのでは「強いブランド」にはなれない。いや、ブランドとしてのアイデンティティーが形成できないことになる。図のピラミッドでは、それぞれの要素が相互にどのような関連性を持っているのかを検討することが大切だ。 このフレームワークを埋めていこうとすると、現状では全く定義していない、あるいは新たに作り出さなければならない点が多いことに気付くはずだ。逆に言えば、今までいかに「競合する地域を横目で見るだけで、自分たちの本質を把握していなかったか」が分かるだろう。 交通が便利になったおかげで、驚くほど短時間で、東京から離れた非日常的な空間に立つことができる。しかし、そこに広がっているのがステレオタイプな観光施設であり、「そこならではの何か」を発見できなくなっているとしたら興ざめだ。今回は、一人の旅行好きとして願いを込めて原稿をしたためた。この思いが届いて、再びそれぞれの地域が自らの姿を見直し、旅行者を迎えてくれるようになれば幸いだ。
最近「何の話をしているのかわからない人々」にしばしば遭遇する。筆者は仕事の幅が広いせいか、様々な人々と出会う。すると、出会った人々と「会話が成立しないケース」が少なからず発生する。どうやら、人々の「会話の仕方」が変わってきているように思えてならない。 ■「言わずもがな」のムラ社会化も一因 日本語はもともと「主語を省略しても内容が伝わる」という特性を持っている。しかし、最近は「主語を省略する」傾向が一層加速しているようだ。 その一因として「専門領域の細分化(=専門特化)」「趣味・嗜好の多様化(=細分化したコミュニティーの発生)」「年代間の差異性の細分化」などで、同質の特性を持った集団(セグメント)が形成されていることが挙げられる。「小集団内」であれば、会話の主語は「言わずもがな」なので、問題を引き起こさない。しかし事情がわからない人がこうした「小集団」に入り込んで会話をすると、「何の話をしているのかがわからない」ということになる。 「主語の省略」と同様、クセモノなのが「ワンフレーズ化」だ。筆者はあるマーケティングの講義で「このケースで企業の成功理由を説明してください」と問い掛けた。すると、受講生の回答はたった一言、「顧客満足!」であった。 質問の意図は「どのような状況に、どのような施策が選択・実施され、成功に至ったのか説明せよ」である。確かに「顧客満足を獲得したこと」は成功の主要因ではあるが、そこに至る過程を省略してしまったら解答とは言えない。 しかし、当の受講生は自らの答えに満足気だ。確かにマーケティングのクラスという「小集団」では、そのワンフレーズで途中の過程を推測できる。しかし、「推測を加えて理解できる」では、本当の意味で「説明した」とはいえないだろう。 「主語の省略」と「ワンフレーズ」は小集団においてのみ、成立するコミュニケーションだ。しかし、それは「言わずもがな」が通用するムラ社会に限られている。社会で多様な小集団が多数構成されていくのに伴い、「隣ムラ」との会話はますます成り立たなくなっていくわけだ。 文脈を構成しようとするのは「相手にきちんと伝えようという意思」の表れだ。しかし、居心地の良い小集団に身を置いている限り、その努力の必要はない。社会の細分化→小集団化→集団内でしか成立しない会話→「文脈力」の欠如→他人への働きかけの欠如→自己中心的・自己満足社会の拡大?? 何やら社会の危機を感じざるを得ない。 ■最近はやりの脳力開発ブームへの疑問 こうした「文脈力」を軸に考えると、最近の「脳力開発ブーム」にも何となく危うさを感じる。アンチエイジング(抗加齢)や教育など、ブームの背景は様々だ。しかしゲームソフトの内容を見てみると、ほとんどが「右脳強化」を目的としたものであることに気がつく。 「右脳」はイメージ、直感、芸術性、創造性、潜在意識などを司っており、右脳を強化することで芸術的な感性やアイデアも開花するといわれている。しかし、「文脈を構成する力(=相手にこちらの意図を伝えようとする力)」を司るのは言語認識、論理的思考などを処理する「左脳」だ。左脳を置き去りにした脳力開発。ここでも「相手に意思を伝える力」という観点が欠落しているように思える。
「文脈力」はこまぎれの知識からは生まれにくい。例えば、日本語能力の向上という意味では、平成4年から始まった「漢字検定」がある。年を追う毎に受験者数は増え、10年間で200万人を突破した。しかし「漢字検定」はあくまで読み書きの能力を測るものであり、文章の構成力を問うものではない。日本の学生の数学(算数)では「数式を解く能力の低下」ではなく「文章問題の文脈を理解する能力の低下」が指摘されている。「漢字能力」と「文脈力」の関係と、「計算力」と「文章問題を読み解く力」の関係――いずれも問題の本質は同じではないだろうか。 ■美しい日本語・正しい日本語を鍛えるには 携帯メールでは、文章を書く訓練にはならない? 「文脈力」の訓練は、文章を書くことに尽きる。「書く」という行為は不特定多数の人に理解してもらおうと努力するが故に、「相手が理解できるようにする」ため文章の構成に力を注がざるを得ないからだ。 「文章を書く機会は昔より増えている」との反論もありそうだ。本当にそうだろうか? 流行のブログ(Blog=日記風簡易ホームページ)は、「誰が読んでくれるか分からないけど、とりあえず思ったことを書いてみよう」と文章を綴るのでは訓練にならない。「モノローグ」には「人に何か伝えよう」という意識はないからだ。 「携帯電話からのメール」は「特定の相手にのみ向けられたメッセージ」である故に、思いついたことを打ち込んでいるに過ぎない。文章を書くのとは、頭の働きは全く異なる。 パソコンや携帯は打ち込む時間も短縮できるし、頭に浮かんだことを次々と文章にできる。しかし、「書く」は原稿用紙のマス目をカリカリと埋めていくことが基本だ。それは頭に浮かんだことを腕とペンを使って、文字として出力していくという手間のかかる作業。ある意味、肉体労働だ。アタマでは何度も「この表現で正しいのか? 人に伝わるか?」という推敲の作業が行われている。 ところがペンと原稿用紙がパソコン・携帯に置き換わったとき、そうした思考回路は脇に押しやられる。手軽さと軽便さの裏返しとして「読み手に伝えようとする意識」が希薄になり、「文脈力」はないがしろにされてしまう。 ■「文脈力」欠如は過度のコンピューター依存の産物? コンピューターは情報の処理はできるが、ストーリーを組み立てることはできない。それは人間の役目だ。しかし、その人間の側が情報処理とストーリー構成を連携させる能力を喪失し始めている。急増する陰惨な事件も「この行為によって、どのような結果が引き起こされるのか」という因果関係をイメージできなくなっていることが一因ではないだろうか。 コンピューターの普及に伴い、私たちは以前では考えられないほどの情報にさらされている。当然「情報処理のため」脳を使う場面は増えた。いきおい、左右の脳の連携という脳の一番大切な機能を十分使わなくても済む場面が増えている。 社会のデジタル化は今さら止められないだろう。だからこそ右脳だけでなく、左脳を鍛える機会こそもっと増やすべきなのである。今日の右脳ブームは、「感性」「創造」を無視した「左脳偏重教育」の反動でもてはやされている側面が強い。しかし、それではバランスのとれた脳の教育にはならない。「読み手に伝えようとする意識」を持ち、論理構成力・文脈構成力を養うには左右の脳をバランス良く鍛える教育機会「文章を書く」の重要性を見直す必要がありそうだ。
「危ない!」。思わず振り払ってしまったのは、街頭配布のパンフレットだ。筆者の胸の高さを狙って突き出されたそれは、横を歩いていた我が娘の目を直撃しそうになった。身長120センチ強の子供の目は、配布物を受け取らせるのにちょうどよい高さだったのだろう。 ■街頭配布の場景 駅前を見回してみれば、ティッシュペーパーやパンフレット、チラシ、フリーペーパー、試供品などが、場所を奪い合うように配られている。なかには 街頭配布は年々増加しているように見えるが・・・ 黙って配布物をおずおずと突き出す者もいるが、「お願いします!」と威勢のよい声を張り上げ、スピード感たっぷりに通行人の胸元に差し出すスタイルが主流のようだ。 フリーペーパーは定期読者とおぼしき人はしっかり受け取るし、珍しい試供品も、進んで受け取りに来る人がいる。しかし、ティッシュペーパーはもはや飽和状態にあるのか、受け取らない人も多い。「オマケなし」のパンフレットやチラシに至っては、受け取っても捨てるのが煩わしいのか、身をかわして通り過ぎる人が多い。いずれにしても配布人たちは、「配布物を通行人に手渡すという行為」の本質を教えられず、業務に就いているように見受けられる。 ■マーケティングにおける位置づけ マーケティングの観点から、「配布する」という行為の本来あるべき姿を考えてみよう。定番のAIDMA理論(Attention・Interest・Desire・Memory・Action =注意獲得・興味喚起・欲望喚起・購買欲求記憶・購買行動発動)で言えば、最初のAとI、つまり配布物を手渡し、注意を獲得し、内容を見させ興味喚起する役割を担っている。 しかし、つぶさに観察すると、「街頭配布」という手法の効率の悪さに驚かされる。達成できているのはA=注意喚起の半分ぐらいであろう。受け取らない人は当然、注意も寄せていない。「お願いします!」と言われたところで何をお願いされているかも分からない。勢いに押されて反射的に手にした不要な配布物は、ろくに見られもせずゴミ箱に直行することになる。 本来の街頭配布の意味を踏まえれば、特にパンフレットやチラシなどは「○○にご関心のある方は、ぜひお手にとってご覧下さい」と配布物の内容を告げ、関心のある人、もしくは必要のある人のみに手渡すべきなのだ。そして、受け取った人に「ぜひ□□というところにご注目ください」と一言添えれば、AIDMAのI=興味喚起までたどり着くだろう。 無論、この方法では、大量にばらまくことはできない。配布人たちは雇い主から「とにかく数をまけ」と指示されているのだろう。かくして、冒頭の筆者の体験のように子供にぶつけんばかりの勢いで、反射的に受け取らせるような動きが横行する。しかしそれでは、パンフレットやチラシを作成したクライアントに効果を還元できようはずはない。いや、むしろ冒頭のような筆者の体験は、そのブランドの価値を損なう恐れさえある。街頭配布の本来的な意義を実現しなければ、マーケティングとして機能しないばかりか、逆効果になりかねないのである。
■街頭配布から考える“働くことの意義” アルバイトの求人欄などには「チラシ配布人募集」と書いてあり、「誰にでもできる簡単なお仕事です」とただし書きがある。実際、持ち場と配布物を指示され、機械的に「お願いします!」と声を張り上げ、相手の都合や周囲の迷惑も顧みず、人前にモノを突き出すという反復動作を行っている。露骨に無視されたり受け取りを拒否されたりしても、何の疑問も抱かず、自分の持ち時間いっぱいその行為を続ける。おそらく彼らは、何も考えないで仕事をこなしているのだろう。 しかし、昨今、「労働」はもっと広い意味合いを持ち始めている。つまり、「働くことにより対価を得、生計を立てる」というだけではなく、「自己実現」や「知的好奇心の充足」、「仲間と共に働く喜び」など知性や感性と関連した要素が重視されるようになっている。その証拠に、就職面接で学生は口をそろえて「アルバイトで働いた経験によって、いかに自分が人間的に成長したか」をアピールする。 街頭配布は、そうした「喜び」や「成長」とは無縁の、脳神経を全く刺激しない単純労働にすぎない。働くことによる喜びや成長は、知恵を絞り、さまざまな困難を乗り越えた先にある。それを知る前に、人間性をスポイルするような単純労働に慣れてしまうと、「働く」ということに対する価値観は「金銭を得ること」以外に形成されなくなってしまう。 マニュアルに従い全く自分の思考を用いない労働には、「飽き」がくる。するとその仕事を辞める。しかし、また金銭のために同じような仕事に就き、また辞めるということを繰り返す。フリーターの増大が問題になって久しいが、問題の根本はこんなところにあるのかもしれない。 もちろん、職業に貴賎はなく、単純労働にも、その仕事の効率や質を向上させる「カイゼン」の余地はたくさんあるはずだ。要は、本人の意識、または雇い主の意識付けの問題なのだ。 街頭配布は年々増加しているように思える。このあたりで一度、効率と本来の意義を考え直してみてはどうだろうか。そうでなければ、今後も駅前には何の感情も持たない「配布マシン」が跋扈(ばっこ)することになる。 いや、「街頭配布」だけが問題なのではない。街頭配布を反面教師として、その業務の本来的な役割は何なのか、そして自分の働き方が形骸化していないか。創意工夫を欠かしていないか。そんなことを一度見直してみてはどうだろうか。